空々漠々

2007.06  ●「近頃の夢」
2007.04  ●「今年、今、春」

2007.01  ●「神頼み

2006.12  ●「冨士の裏から旅」
2006.10  ●「津津浦浦」
2006.08  ●「阿波・真夏の夜の夢」

2006.06  ●「もう一つの風景」
2006.03  ●「一人旅立った友

2006.02  ●「泣けぬ男になりたくない」
2005.12  ●「悪事千里を走る」

2005.10  ●「呉越同舟
2005.08  ●「高齢と隣人と病院と
2004.12  ●「生活者と開発」
2004.11  ●「今」
2004.10  ●「不安だなぁ 向こう三軒両隣り
2004.09  ●「 夏・交交」 

2007.6

 ●「近頃の夢」
  近頃妙な話を聞く事がある。はしかは一度患ったら二度とかからない病気だとされていたのに、子供ではない二十才以後の成人が、大学閉鎖を招いたりしている。海外に出る機会の多い時代でもあったりで帰国後に狂犬病の土産に驚かされているとか、とかである。
 ある種の経験と体験に依る自分なりの一定の自信と確認があった時代が、最近になってなんとなく頼りなくなってしまった様な気がする。此の道を往けば間違いなく思いの程度は達成出来る、なんて思わされたり教えられたりして来た事が多かったから、何の疑いも持たずに素直に育ったなんて思い込んだり思い込まされていたのかもしれない。未だ未だ入口の端にいて人生を語る資格もないのかも知れないなあと、思いのままに生きるすべも知らない自分に気がついたりである。
 そう言えば、人間関係のこと等もそれぞれに変ってきているのかも…というより、思いやりとか心遣い等と言われてきた事も又同じに不明了で不安な存在になってしまっている様に思える。昔聞いたセリフであるが、「生まれる時は別々だが死ぬ時は一緒だよ。」とか誠しやかに聞き流した風もあったやに覚えている。人は長命になっているせいか生命を終るのが頭突になっているのではないだろうか。昨日元気でお会いした方が突然に他界された等と、伝え聞くに及んではあんまりでは無いだろうかと思ってしまう。今、小生の頭の上を一匹の蝿が飛び廻っている。普段であれば少々うるさい奴だなぁで済んでしまう所だが、思い入れがある時等は、今は亡き友が形を変えて会いにきたのかと、目の敵にしている蝿であってもいとおしいと思ってしまう。感傷的になっているが故であるのはわかっている。万事が如く、思いが要因である。 
 人生とは何ぞやとか言うものでもあるまいが、年令を重ねてくると希望とか野望とかを思い乍ら未だ未だと思っていた頃ではない事に、少しずつではあるけれど気がついてくるのだ。そして己れの視覚の庭が見えて来て夢に気がつくのだ。そうは言っても夢はみるもんだよ。

2007.4

 ●「今年、今、春」
  暖冬と言われてから長い時を経た。日常何事もないかの如くに振舞っていたのだが、自然は黙ってはいなかった。地球上の何処かで異状気象、現象が起ってきていた。今年の春は早く来るだろう、此んなに雪が降らないのだから有り得るよと世間で言われ、気象庁迄も背をおされる思いだったのだろう。桜の開花情報を発表、思い思いの先取り事業に打ち込み始めてしまった。祭礼やら行事やらが予定より早まったりする所もあったりしたらしい。だが、「コンピュータのデータが、打ち込み間違いにより誤差が生じました」と気象庁が発表するに至って桜花開きは時日を訂正するに及んでしまったのだから又騒がしい事になってしまった。 
 話は変わるが、少々具合いが悪く体調を看てもらいに往きつけのドクターに相談にいったが、時間が早く外で待つ事になってしまった。通常は午前に往くので、今日の様な午後は、日頃は知らなかったなあと思い乍ら二十分位の間、奥まった東林間四丁目をみる事になった訳だったが、三時頃下校時間の小学生が三三五五と賑わうのには驚きであった。此んなにも大勢の子供がいたのと、日頃見知った子供の通学、下校の様子が場所に依ってはこんなに違って見える事にも気付かされた。外で感じた子供達は開放された喜びで、悪ガキはそれらしくみえるが、今見ている子供達は仲良くグループを組んで和気あいあいと列をなして帰宅して往った。同じ場所でも時間に依ってはこうも違う場面があるものなのだと改めて感じさせられた。
 年代に関わる環境変化もあったと思いますが、徐々に林間らしさと言うのか街づくりが出来てきているなと、子供の下校でも思える人々の意識を感じ嬉しいものを見たなと思えた。此れ等が種々に芽生えてこそ時代交替がなされていかれるものかも知れない等と、納得してみたりしている自分にも老いをみたりである。 
 されど桜である卒業式には花吹雪で送ってやりたいとは親御様の願う所ではあるまいか、季節とか風土の変化とは毎年同じ物と思い込んでいた事かと思いは次に明日への希いかも…。

2007.2

 ●「神頼み」
 頌春を迎え早や時は節分祭になろうとしている。毎年御案内を戴いては、それなりに考えさせられ乍ら自分なりに判断しなければと思い時を逸する、その様な流されやすい年々を経た事の多かったことでした。大体が節分の解説をするのも今更でありますが、東林間神社に小生が掛わって四十年近くが過ぎ去っている事実が、何かの話題を提供できるであろうかと思っています。
 四十年も前の林間地域は前傾姿勢に地域が発展を始めた頃でしたから、人口こそ少ないが前向きに喜々とした祭典であった様に思えました。そして発展と開発が相互に隣り近所を変化させて往く中で神社祭も人寄せが始まっていました。先住民の意識と意欲、そしてプライドが、他地域からの移住者にも浸透してゆく事になりました。小生もその一人であった事は言う迄もありません。商店街も飲食店もほんの一握りであった頃です。地域の方々も認識する事に一生懸命であったと思われましたし、協力的であったのです。
 其処で人々は新しい発想を打ち出してゆこうとしました。当時は未だ人口増加時代でしたから、どんどんと移住が始まり学校の新築等があり、学区制の変更で教育課への陳情やら何が何やらであった頃でした。此れだけ地域の子弟が増えたのだから、神社にも祭礼に相応しい御興もつくらねばならなくなりました。次には山車も必要だと、それこそその頃の神社関係者は八面六臂の活躍を余儀無くされていた事でありました。
 時はそれからそれへと流れて今日を迎えてはいます。人は努力を重さねている最中には止まる事を余り考えようとはしません。それこそ我事の様に協力も惜しみませんから想像以上の事が出来るのかもしれません。大切なのは、其の後の育み方が問われるのかも知れません。小生は関わっている担当ではありませんが、努力をなさってこられた先人は知己の方々を多く知る一人であり、皆様の原点に帰った姿を願う一人である事を希むものでもあります。
 福は内鬼は外、福は内鬼は外、
 福は内鬼は外・・・

2006.12

 ●冨士の裏から旅
 11月初旬の早朝に車は富士方面に向っていた。小生の友人が運転を買って出てくれた事で行動に移せた様なもので、自分一人では意気地なく何度となく躊躇していたのです。其処でもう一人の友人に声を掛けて同乗三人となり、コースも昔一度通った道志みちを往く事にした。津久井町から山道に入る曲りくねった道程を、ほぼ2時間の時を経たものであった。昔々の道は、どれ程の記憶であったものではありませんが、往く道々はさてこんなものであったかなとかと、問い問いと人に問題を好奇心があったが故に、早朝が故にし乍ら眠気も飛んでいたのかもしれないが良く起きていたものであった。  
 運転者はもちろんの事、小生も此んな意識であったから谷間に開ける村々の空間はなんとも新鮮で、まるで始めて知る空間の拡がりに驚きの連続であった。地方に旅をする心境は此の様なものであったかの様に思い込んでいたが、今回は全くそんなんなものではなく、新世界が拡がっていく思いに似た心境であったのです。学校へ往く子供の姿もあったりして、もう小生の記憶から薄らいでしまった生活がありました。道志川の片わらに続く道々の思いの先を往き乍ら、道が山中湖への土手腹に突きあたる様に湖のレジャーセンターに隣接していたのも、此の道の驚きの結果になった。それは陰やかな景色であった。一服の日本画がどんとそこに存在しているかの如くに美しい富士が存在していたのだから、今迄の山道、谷間で閉がれていた時、突然開かれた山景に日本人の観念のような八の字富士山が拡がっていたのは、別の次元を感じている様な思いになり悪い気がしないものであった。熱ったかいものが売っている店はないであろうかと、のどの乾きをその頃になって初めて感じたのも新鮮な、まるで今迄感じた事が無かったかの如く思い出した。ともかくタイムトンネルを抜けた様な思いになった。其処には大衆風呂につかっていた頃の風景があった。日本人なら誰もがそう思うに違いないとしてきた風景である。俗っぽい、それでいて心の故郷にひたり乍らの時であった。 
 さてそれからの一日は、ぽちぽちと書いて参りたいと思います。もしその本来の旅行記を読んで下さる方々がいらっしゃいましたら、前ぶれだけの今回の紙面には申し訳ない事となりましたが御容赦願いたい。唯だ、山中湖の風景は今昔の感があり、あの砂浜の記憶も朝焼け冨士の思いも、半世紀の時を過ぎた今日では湖畔に見出すことは出来なかったとだけ申し上げておきます。

2006.10

 ●「津津浦浦」
 私事乍ら、筆を執る四日前訃報に接し、会津まで出掛ける事になりました。その日明け方五時、親類の車にて彼地へ向う事になったのですが、景色を観る心境にもなく、今何処を走っているのかそれすら分らない状態でした。忙しい日々を終えて、帰路は会津若松から準急で郡山、そこから新幹線を乗りついでの道々、田園の風景が窓外にくり拡げられて流れたその色は薄黄緑色で黄金色というには未熟との感があるも、その生長は充分に観てとれると言って過言ではあるまい。心強い手ごたえを感じさせていた。今巷に報導されている台風十三号が、その道すがらで比の田園をそれていってくれる事を願うのみである。そうした世間の騒ぎの中にあって林間地区は大きな被害をこうむる事もなく過ごせる事に感謝しつつそれにしても、と。
 夏祭りの去ったいま、秋晴れらしい日はこない。それ所か秋雨の毎日で街には少々うっとうしい気配が流れている。そこには歴史があり生活と生業があるのは何処でも同じ、小生が比地に移りすむ事になった頃は何とも長閑な雑木林と、畑の周りには桑の木が類々、その昔は養蚕業が盛んであった事を物語っていたものであった。日々の生活と言ったって特別な生活費を必要とはしないでも萬事がすんでしまうといったもので、現在考えても良き時代であったなと思う。隣人とも親しくなりやすく、皆様にはお世話になったものである。小生が向三軒両隣りにお世話になっていた頃、中和田の友人の御尊父が亡くなられて線香を捧げに往った時の事だった。念仏衆達がその家に訪れ御詠歌を唄っていたの思い出した。それと全く同じかどうかは知らないのだが、彼地会津地方でも詠い集というのがあって、葬式の儀式の一つであるとわかった。小生の人生が今一つだが、日本全国にて永々と続いている祖先からのしきたりみたいなものは納得させられる。
 追記/秋祭りが神社で行われるが、今年は小生の勝手が過ぎて今紙上に記する事が出来ず終りになってしまって誠に申し訳なく、今後機会が出来ましたら紙面にて記載させていただきます。

2006.8

 ●「阿波・真夏の夜の夢」
  梅雨が明けたとは未だ聞いては居らぬのに、三十数度の炎天が此地にみまわられている。いよいよ夏祭りの季節がやって来るのだなと思わせる。もう十五年の時日が経っているのだ。今更ながらだが、諸々の問題が無かった訳ではないが良くやったと言う事であろう。今や地域においてもなくてはならない事業となっている。
 祭りが近づく頃になると、何処からともなくテケテンテケテンと阿波の囃子方の音頭に合わせて振りつけの練習に予念がなかったのも思い出せるし、練習後、お疲れ様をしながら居酒屋の真中を借りて太鼓と鐘が鳴り響いた事も一度や二度ではなかった。太鼓の音は腹にドシンと打ち当って来る。どしんと古代のロマンを感動をよみがえらせてくる。めらめらと普段では忘れてしまっている裸の感激を思い出させてくれる。頭の天辺を突き抜けて耳をつんざく金属音は鐘の声である踊り子連の指揮棒になる。なんとも賑々しいかぎりである。イベントホールでは寸劇か奴凧のパフォーマンスが始まる。ツンツンと糸に引かれた奴さんが突然糸の切れた奴さんとなり、バランスをくずしたきりもみ状態になったりしながら倒れ込んで往く様等が描かれてゆく。さざ波の様に鳥追い姿の姉さん達が、つま先立ちにけり立てながらの振舞い踊りは、張りつめたその場をいさめる様にヤットナーと言っている様である。周りを観れば昔ながらの夜店が並んでいるのが小生には懐かしくタイムスリップしてしまうのである。皆々は十銭で何かひとつは買えた気がしたのを思い出すが、今時その価値は実感ではあるまいから百円として表現すると何が買えるのか置き変えてみたら当時をしのぶ事が出来るかもしれない等と戯れ言を考えてみるのも一興かもしれん。 
 金曜日が前夜祭、土・日が本祭りに。季節の変り目、御身体を大切に程々の祭りを。

2006.6

 ●「もう一つの風景」
  水無月とも言われる月六月はもう一つの季節である梅雨の入りにもあたるいささかうっとうしき時でもあります。が、社会的な組織が新年度を迎えて活動を始めている頃でもありましょう。昨今地域に何やら時代がらみの主張が話題を提起していたやにうかがうのもありました。それぞれに理解の接点が平和共存出来る事こそ、伝統的な意味も含めて此れからの地域を育む糧となるのではないでしょうか。何度となく関わる人々は努力なさっていらしたと思います、是非、是非…。
 日中の景色も日頃から見慣れているが、此頃は夜景にも変化を感じております。緑が失われていく空地は建築物に依って埋められて往き、道路も徐々にではあるが整備されている。道路に面した住宅商店は、新しい街の様子を呈している。仕舞屋はどんどんと形を変えざるを得なくなっている。此等は街の現状であり今後も変わりつつあるであろう。長い間居住してきたせいか時折異和感をもつ事があるのです。日暮れになって街々に街灯がともる頃ともなると、今迄は感じもしなかった暗が生まれている事に気がつき出したのです。少々大ゲサですが、都会にあれば何とも思わない事でしょうが、夜の暗さが生み出した、向こうが見えない丘を創り出したのです。自然の中に人工的な丘が前をさえぎり何とも文学的な空間が出来ているのだから、灯りのついたビルの窓は陽のかげった斜面であり、片面の暗の部分は絶壁の谷間のようで、その上のポッカリと浮いているような月が小生の周りに新しい景色をみせてくれている。
 夫々の主観があるから立場から意見があり主張がある。結果に疑問や納得のゆかない所があるから無暗にとは言えない反論も生まれるのであろうが。ともかく意味深い夜の新しい風景は未だ一部でしかない。こうなってくるともっと別の見方も出来るではないかと興味深々である。林間という土地柄故のイメージも時代に依る変化というイメージチェンジをして往くのであろう。無事ささやかな生活こそ大切な創造があるのかもしれない。

2006.3

 ●「一人旅立った友」
  冬期オリンピックが、トリノで華やかなオープンセレモニー等々順次に競技がテレビから流れている。何とも冷え込む日々の多い年である。私事でありますが、年初より風邪に悩まされる日々が続き、病院通いも一度ならずであるから仕事にも支障をきたす有様なのである。皆様は如何であろう。
 そう言えば今年明けから訃報の多かった事はない。然かも皆様が若く、未だ未だと見える方ばかりであっただけに惜しまれる事であった。中でも小生より若くして逝かれた友の事にふれてみたい。
 彼の人生全てを知っている訳ではないので生存中にあった小生との関わりについての一部であるが、彼の人が小生に会ったのは三十年以上前になる。当時は、ある中華店の出前をしていた頃であった。その後退店をしたとの事で空白の時が在り、再会するのは二十年位後の事、中華のコックさんになってからだった。ひたむきに努力をして後、独立をなさった頃だったが、その時も未だ小生は直接の交友はなかった。そこへ常連として通う京都出身の方が介しての事であった。三人は良く飲んだものであるが、京都の男は事情があって京都に帰って往った。そして残った二人の交遊が始まった、互いに商売を通してもいたから、共通の話題も含め諸々の話が交されたのは言うまでない事である。純で甘えん坊でもあり、願望も欲張って種々だと駄々をこねたものだった。ある店にエレクトーンが置いたのを見た時は、エレクトーンを習いに行きクリスマスイブには演奏してみたいとか、島崎藤村の詩集をもて余して小生に押しつけたり、小生の知己からの美術展の招待状があるから観に往くかいと云うと喜んでついてきた。東京は品川の生れだそうだが、まるでそんな気配を持たない純朴な方であった。
 人の一生を書こうと思ったら大変な事である。切り取った一部でもそうである。別れる前日にも酒を飲んだが普段と変りがなかった。甘えん坊は小生に「愛の讃歌」を歌えと言って、よく飲んだ友は小生を一人残して旅に出て往った。

2006.2

 ●泣けぬ男になりたくない
  私は小さい頃に母親からよく「男は泣くんじゃない」と言われたものである。私は幼少の頃から虚弱体質でよく泣いたものである。また戦時中の兵隊なども蔭ではよく泣かされながら表では空威張りしたり、それを誇らしげに話す人が多かったようだ。だいたい「男は泣くものではない」などと言うのは武家社会から出た言葉で、男の強さを誇示する事と共に男に対して弱者であった女性がよく口にしていたように思う。そしてそれは「男が威張り女が泣く」当時の社会通念が生んだのではないか。
 私はどういうわけか喜怒哀楽をすぐ感じる方で、悲しい時にはつい涙もろくなってしまう。そして老年と言われる歳になってみると、若い時よりも涙もろくなったなと思う。けれども老年になると皆そのようになるようだ。そしてそれは自分の歩んだ人生とを重ねて見て泣く事の多い世代という事であろう。
 併し「男は泣くものではない」と言う事は誰にでも言える言葉なのだろうか。私は芸術を愛する人間であるが、世に芸術家と言われる人にとっては泣く事もその感性にとって大切な事で、「喜怒哀楽」を強く感じそれを作品にぶつけ表す感受性こそが芸術家として生きる最大の条件であり、喜怒哀楽もあまり感じず泣く事さえも出来ぬ人間に、良い作品の出来るはずが無いと私は思うのである。絵画・書・彫刻・音楽・等々およそ物を表現するという事は、泣きたい時には泣き、笑いたい時には大いに笑い、喜びや怒りを人並み以上に感じて作品に投入する力を持つ人ほど、人に訴える作品が生まれるのだと私は信じている。
 その事を考えると「男は泣くものではない」と言う言葉は現代ではもちろん武家社会にあっても身勝手な言葉と言わざるをえない。だから美しい花を見ても泣ける人と、そうでない人ではその色の美しさが違うのではないかと私は思うのである。

2005.12

 ●「悪事千里を走る」
  永い事思いもよらず筆を執る事になりましたが、この成り往きで良いのだろうかと少々不安になって参りました。と云うのも、不安定な現実が続くなか、己の置かれている環境で如くも大層な物言いをして良いのであろうかと思う事が多くなって参ったからに他ならない。是非諭でとらえている訳ではないが、ともすれば願望が無いわけでもないからである。貴方はどうしていますかと問い掛けている含みもなく、それでも此処で何らかの根拠があるのではと言いそうになるからである。人は弱いものだと思い乍ら、強いものの様に錯覚に落ち入る場面があるのはどういう事であろうか。
 アンバランスと書いてある車がありますが、それが救急車の事であるという事は御存知でありましょう。人はバランスの上に成立っているのでありましょうが、それが一度不均衡な状態=アンバランスな状態に陥ると、全くもって不様なものである。出来れば皆様と同じ物言いとスタンスがとれれば幸いであると思い、また東西南北四方同席といけたら幸いだと思うのである。でもあえて書かざるを得ないのであれば、幸多い事に係る事を願いつつ筆を進行させねばと。
 悪事千里を走るという言葉がありますが、人はともすれば間違いを犯してしまう事も多々あることでしょう。人の尻馬に乗ってしまう事もありますが、兎も角もとの軌道に立戻る努力をしてみたいものである。
 秋深く例年行事の消化されて往く中で落葉の乾いた音を聞き乍ら、商店街の振舞いであるケンチン汁の温もりを感じている。善意と感謝はもともと良き隣人であった含である。枯れ木の如き音はあまりにも無常であり素っ気ない様な気がする。ともあれ良き隣人の言ノ葉に潤いを求め、より良き土地柄を創る事が出来たならばと願うものである。
 今年もインフルエンザの猛威が予想される為か、商店街としても初めて厚生面対策等気配りがなされている様で、「山本クリニック」に於いて希望者にワクチン注射が施されたと聞いている。木枯し一番が街中を席巻したのも、いよいよ冬仕度がせまられたなと思う。

2005.10

 ● 「呉越同舟」ごえつどうしゅう
  例年の如くと申しましょうか台風は次々と猛威を振っては各地に災禍をもたらしている。何やら年々その異常さを増し、自然の破壊力をみせつけるかの様にである。
 そういえば、地方選挙、比例代表と此処にきてあわただしい事ではありましたが、決着をみることとなり大勢は自民の大勝利であった。何処の地域にあっても人は、その間に意志、情、思惑等々が重なりあって国家大諭を熱く語っていたに違いあるまいと思う。 
 振り返えれば走馬燈の様に思い出す。未だその商業振興の波が泡立って来つつあった頃の事、世間の景気もバブルの頃で、東林間周辺の賑わいも現在の比ではなかった昭和と平成の関わった時に、ある落下傘代議士が現われた。地域は沸いた、救世主の再来とばかりである。人物は温厚にして政界には不向きかと思わせるインテリーであったし、その奥方は政界にだけは出て欲しくなかったと当時語らせた位控えめの方であったが、そんな事はおかまいなく日々熱気を帯びて、その事実だけが現実のものとなって往ったのを覚えているのだが、其の期の結果は残念な落選であった。後にはなんとも言い難い人間関係の赤裸々な事実の日々を送るのであるが、次期の当選を目標に又しても人間文様を提して往った。
 政治の世界をどうこう言いたい訳でもないのだが、地元の生活者としてのしがらみは常にどうでもいい訳ではない。国民の義務と言うならそれも最低の線を守りましょう。だが此うした繰り返しを如何にして結果として具体的な事実につなげられるのか、何時も不可思議だなと思うのです。人は生活する事で手一杯です。夢を観たい気持になるのもやむを得ないでしょう。かと言ってミーハー族の様に浮かれるばかりで良いのかなと自己反省をしてみます。日々は其の人の足元にある事から端を発して次の世代に委ねるという転生のリズムがあるのだろうと。古きは悪しきものではありません。新しきは善ばかりと思い上がっても良い訳ではない。
 去り往くもの入り来るもの呉越同舟

2005.8

 ● 「高齢と隣人と病院と」

 梅雨に入っては全国的な多雨にみまわれ、所に依っては大変な災禍に途方にくれているとか、案じられることです。幸い林間地域にあっては無事に日々を送らせて戴いている。今年の夏はどうであろうか、炎暑になるのであろうか、等と。
 そうした中、友人の一人が入院をしたとの報らせがあった。次の休日は見舞に行けるであろうか。病院は東芝林間病院との事。確か今年増築した病棟があったと思うその一角であると聞いた。その新らしい病棟は創立された頃のサナトリュウムの時代を忍ばせる院内遊歩道の在った所で、小生も何度か散策させていただいた覚えのある場所であった。記憶のある風景と重ね合わせると、此処はヒマラヤ杉が在った。中は小公園、其処には何んとか言う大樹がと次から次へと、そう言えばテニスコートも駐車場に変っていた。色々と思い出が時の流れを感じる。
 見舞の当日は正門から入り新館正門に。だが日曜の為旧館正面から迂回通路を経てエレベータセンターへ往き、南北に表示された院内へ向った三階であった。確かではないが二階がオペ等のスペースだそうだ。ナースセンターで室を確認し、四人部屋らしい部屋の中は円形状カーテンで仕切られ何やら判り難いが、声をかけ本人の声をたよりに中へ入ると個室の様なベッドルームで、窓つきのプライバシーの守られた落ち着いた場が拡がった。彼は元気な容子で振舞ってくれた。三日後にオペがある事等何ともないかの様に屈託なく、いつもの彼であった。何よりだった。小生は苦手である此の雰囲気(見舞)にも安堵した。無事退院してくれる事を願いつつ又来るからと言残して席を立った。
 病院を出ると目の前に建築中の工事現場が在った。今時マンションブームでもあるまいが、此処は第一次募集で完売だと言う。驚きであった。立地條件は申し分ないであろう駅の側で桜の季節には並木も満開であるからであろうが、然し病院の前である事も好條件の一つだと聞いた高齢者が一戸建てを売って買換えるのだと、社会不安がより一層身近い所に迫っている向う三軒両隣り。

2004.12

 「生活者と開発」
 そぞろ歩きの一時に気付かれておられる方々もおありでしょうが、東林間に大きな事業が行われようとしています。東芝病院の向い側にある桜並木の片側である雑木林のことであります。此処は以前病院関係者の住宅があった所で、壁で囲われた一角なので普段往来している方でもあまり意識せずに済んでしまう事だと思われます。が、今病院側の事情もあってのことと推察いたしますが、高層なマンション計画が実行される場に変わって、着々と開発工事が行われています。最初は松の木が営々と林立する様がポツポツと消えて行く様に変わり、突然の如く平地に変わってしまった時は、いや事情が分かってきた時には何んとも名状仕難い思いを致したものでした。
 囲いの中は知る人ぞ知る別天地であったし、垣間見る小生が出入りをした方向からは自然の残る四季が感じられる環境であった。すっと伸びた、何んだろうと思う様な細い枝振りにふっくらとツボミを見せてくれる「たらの芽」は小生の嗜好をそそるものでもあったし、全てを知らぬ故の想像が思いをよりたくましくしていたのも事実でした。でも今景色は変わり、相当の年代を経た生きた松やその他の木々は白紙に返ってしまった。
 改って申し上げるのではなく、此の先どの様な町造りを想定出来るのかと、いや創造されるのかと思いを致すとき、良き結果に至る事のみを願ってしまうのは未熟さ故にでしょうか。過去バブルの頃のあの無茶な無策な開発にだけはなって欲しくはない。隣人が寄り添って語り合えるそんな新しい住民と住居を迎えたいものである。未だ話し合いの段階だと伺っている。五軒屋と云われた開拓の頃の方々はどんな想いで現在を思われるであろうか。つい先頃に新しい住居を求めた方が今新しい課題を与えられてどう対処されていくかは貴方の問題だと言えぬ様な気が致します。生みの苦しみと創造に付帯する責任を相互で新しい2005年を迎えたいものだと念じて、今年の筆を納めて参りたいと存じます。

2004.11

 「今」
  今回私事ではありますが身体の調子が今一つ。原稿が遅れてしまって未だに手付かずの状態が続いて担当の方に御迷惑をお掛けして申し訳なく思って居ります。前も依頼を受けてから今回に至る迄、斯くの如き思いをした事はあまり覚えがありませんでしたから少々あわててしまい、いよいよ筆が進まない事に苛立ちを感じてしまって居ります。
 さて話題を転じますが、世間は相変わらず静寂をというか、一向にままならぬ空気がそのままに流れ、よどんだ雨天の様に人々の心持ち迄暗くしている。はてさても背を丸めて道往く人あり、腹を突き出して足下をみる事も出来ぬ位にそっくり返ってしかし歩幅はせまく、何とも頼り難い姿も日常の風景の一つになってしまったかに写る。此の様な日常の中で人は何を求めているのだろうとふと思う。
 「冬のソナタ」という韓国ドラマが一世を風靡するのもそんなものがあるのかも知れぬ。現実とか真実とかは直視出来なくなる位悲惨なものになってしまったのだから、夢想の世界への脱皮を計っているのかも知れない。其処には昔々のロマンや何やら忘れてきてしまった時代の記憶が今一度、人として生きる心の拠り所として、乾いたのどをうるおしてくれるのではとの願望を込めているのかも。だが現実はどうでありましょう。相変わらずの日々があきる事なく繰り返されている。小生も若い頃欧米の映画を良く観たものであった。そして彼の国の思いも掛けぬ文化に心ときめかせたものでした。何時も人は求めている。

2004.10

不安だなぁ 向こう三軒両隣り
  秋風をかすか乍らに感じている。夏祭りの日々が終わりを告げて台風の日々もおさまるかにみえる。街路を歩む人影も陽炎の様に夏のつかれをひきずっているかの如くちらちらとみえる、アンニュイであろうか。でも人々は黙々と日常の予定をこなしている。巷間では頻繁に空き巣が横行していると聞く。住宅街の中で隣人達は事あるごとにその話で持ち切りだとか。何故だろう。
 昔話をするつもりではない。唯だ生活のしくみが変わってしまったのだなあとは感じてしまう。「向こう三軒両隣り」という古いストーリーを思い出していると、そうだったなぁと。それこそ面倒見の良い軒並の長屋時代の話であり中老の人々ならだれでも御存知であろう。醤油、味噌、米に至る貸借に始まる近所付き合いから家族ぐるみの団欒である。何とも口喧しい親父殿達の存在と、それでいながら温かくこずいてくれるリーダー役の面
々、最後迄親の立場で厳然としていた姿を思い出される。片や昼飯は喰べたのかから始まり、まるで吾子の様に扱い乍ら分け離てなく家に招じ入れてくれる母親群の集団である。それこそ今日一日何があった、かにはどうしたと、もしかしたら実の親より理解しているのではないかと思ったものである。頼り甲斐があり、信じられる隣人であったから当然の様に子供達は出入りする環境であったが、悪さをすれば叱責が飛んできた。まるで家族の一員が世間様に申し訳が立たないぐらいの気分でガツンとくるのであるからたまったものではなかった。隣人達の共同体で社会が成り立っていた時代である。
 現在の生活社会ではこうはいかないのは理解出来るのだが、せめて心の意識は豊かでありたいものではないだろうか。合理的で利益優先社会体制の環境で、その事実の良し悪しを問うという大袈裟な言い方ではなく、少しばかりの隣人愛の分ち合いとお互いの思い遣りとか、「向こう三軒両隣り」的人間付き合いが自治会の存在価値であったり、日本的な人間文化の形成で隣近所への心配りが出来たらなあ。

2004.9

 夏・交交
  炎暑はその勢いを増し、台風はその数を知らず、動きも見せずに突然その見知らぬ顔を現わしては各地に被害の跡を残す。三面記事は残酷な事件を次々に報道しては繰り返す、うっとうしくもそれが今夏の日々であろう。
 話は変わるが、毎年八月に入ると食中毒予防キャンペーンというのがある。相模原市と食品衛生協会の協賛で行われるのであるが、これが北部・南部に分かれて今年は古淵と伊勢丹(小田急を含む)の店先を借用して行われた。関係者の一人として小生も当日参加したのではあるが、食品を扱う業者は多々あり集まった人々は一箇所五〜六十人にはなっていただろう。アンケート用紙に答えを書いて下さった方々に粗品を贈呈をする方式で関係役員は炎天下に汗だくになり乍ら、一般通行人にアプローチと参加をうながすガイドをするのである。昨今駅頭等でティッシュペーパーを配る姿は日常的でその間を通り抜ける事も巧みになっていて、吾々が近づくとするりとやりすごされてしまう。外に立って何事もやってこない、にわか配布の輩には、冷たくあしらわれた様な未熟な立居振舞を恥じてみたりの大忙しであるが中には心得のある方もあり、エスカレーターの昇り口の横に立ち何も知らずに受け取らせてしまう姿もあったりして面白いものだと感心させられたりもした。その主旨は良しとして食の文化を育てて往ければ此んな幸いな事はないと思う。祭り騒ぎが全て良い訳ではないと思うが警報を鳴らして未然に防げるものならその努力も無駄にはなるまい。
 広島原爆忌はもう五十九年目を迎える。世間では戦争が未だ続行中であり、近々に不安材料を孕んでいると言う。こりないというよりも知らない事につきる。経験者は仕方がなかったのだと言うであろう。でもその是非は知っている。平和と書くとボケと続いて出てくるのは小生だけの事であろうか。でも、幼い頃に玉音放送を聞き立ちつくしている大人達とは別に『先生、竹ヤリを持って裏山に待ち伏せしようよ』…未だ耳に残る。