終戦・被爆 六十年

寄稿/宅井治朗

2005.8
 大戦終結、世界初の原爆投下(広島8/6)長崎(8/9)から六十年、一瞬にして二十数万の人命を奪った忌わしい哀しい思い でが巡ってきた。
 原爆の悲惨については、老若誰もが忘れられない哀しいこととして認識されているが、年とともに徐々に風化しつつあり。被爆者自身も高令化で記憶も感動も薄らぎ、体験を語り継ぐ生の証言者(語り部)も減少してゆく寂しい現象だが、時の流れで致し方ないことと思う。
 相模原市内の被爆者は、三百名余ときいているが私もその中の一人、今のうちに戦争を知らない若い人たちに、原爆の怖ろしさと、この悲劇を二度と繰り返さないよう語り伝えることが我々の責務であると思うのである。

その日―
戦雲日々にきびしさを博す昭和二十年、私は爆心地から二キロ地点の比治山の下、暁第二九五九部隊材料廠に勤務中であったが、八月六日朝八時十五分朝令の直後、爆音が聞えるという友人の声に、警戒警報が解除されたばかりなのにと訝りながらみんな戸外に出て空を仰いだ途端、鋭い閃光とともに周囲の建物が、玩具の積木を蹴倒す如く倒れ、本能的に室内に走り込んだ。その閃光たるやカメラフラッシュの何万倍に当るか見当もつかぬが、あらゆる色彩の粉塵と、何千度かの熱光線を混入して爆発させたような、筆舌に尽くし難い程強い爆雷が天地をゆるがせた。小柄ですばしこい私はたまたま本棚と机の間の隙間にしゃがみこんだので軽傷ですんだ。倒れた廠舍(建物)の間から這い出し、一人用防空壕に身をひそめ、B29の爆音が遠のくのを待って飛び出し、下敷になっている戦友らを助け出し、他の兵たちの負傷状況を調べて廻った。
(注)(この続きは次号に。長崎の状況は次の別の機会に!)

2005.9
 部隊衛門には、男女の区別もつかぬほど焼けただれ、垂れ下がったボロ布で身つくろいしながら「兵隊さん助けて、水、水を」と泣き叫び助けを求めてくる市民の列が続き、火傷に自動車用の油を塗って、比治山裏の小学校避難所へ誘導したり救護に追われた。火の手が廻ってこないうちにと本部の機密書類を、ブロック建の脂油庫(シユコ)に搬出するなど、軽傷者で協力し無我夢中の時が過ぎ、三時頃、塩昆布入り握り飯が二個宛配られ我に返った。
 間もなく、部隊長からの達しで、市内に家族の居る者はすぐ見届けてくるようにとの連絡で火災の鎮まった広い道を選んで北西方向の横川へゆく。途中焼け跡の余熱で息苦しく、ハンカチを濡らして蔽いながら急いだ。道の両側には幼児を抱いたまま若い母親が防火用水槽の中で息絶えていたり、這いずりながら水を求めて呻く多くの市民たちが間近に迫った死と戦っている。生きている心地もしない残酷さで、さながら生き地獄の様相であった。
  わが家のあった横川駅周辺は勿論、四キロ余り北にある安佐南区の祇園辺りまで焼野原、燻る煙が所々に見られるばかりであった。
 部隊はその夜から、営庭(グラウンド)に蚊帳を吊り、仮の眠りをとったが、三日後広島駅の山裾に応急の小屋を建て、八月十五日のラヂオで天皇の降伏宣言(玉音放送)を聞いて戦争終結を知らされたわけだが、敗戦を信じない若い兵たちの動揺は中々おさまらなかった。
 尚、私の家は九人家族であったが、郷里へ疎開した者、仕事で郊外に出張した者などで、妹がひとり横川の家に居たが、幸いに倒壊を免れ、火の手が廻る前に退去、市北部の小学校へ避難したと、翌日部隊を訪ねてきた。妻の従妹(18才)は原爆ドームとなった産業奨励館の内務省出先へ勤務していたが、出勤と同時の被爆ですべもなく、焼け跡から遺骨を拾って郷里へ送り届けた。爆心地に近い他の親戚、友人たちの多くは即死か、脱毛、体中の紫斑で膨れ上がり、見るかげもない残酷な姿で、数十万人の人々が死んでいった。
 八月三十一日、部隊長最後の訓示は、終戦と部隊解散の命令であった。兵たちはその日のうちに、それぞれの郷里へ散ってゆき、広島発の列車は貨物車並みの詰め込みで混乱した。この大戦による死者は、全国で三百万人以上ときいたが、原爆や戦争のない平和な世界に早くなってもらいたいと心から念願している。